油須原駅は、田川地区の石炭を輸送するため、豊洲鉄道(初代)が行橋〜伊田(当時)駅間を開業した1895(明治28)年当時からある駅のひとつで、旧国鉄、JR九州の田川線を経て、1988(平成元)年に当社に引き継がれました。
田川地区からの石炭を満載した重い列車には、最後部に補助機関車をつけて上り坂を後押ししていましたが、油須原駅から先は下り坂となるため、補助機関車はここで切り離していました。その関係で駅構内が広いのが特徴です。

田川線は国鉄線としては廃止する方向が決定していたこともあり、合理化のための投資も一切行われず、当社に引き継がれた後も、1991(平成3)年までは、駅員が勤務し、閉そく取扱いや腕木式信号機の操作を行っていました。
無人駅になってからも地域の方や社員ボランティアにより構内清掃、整備が行われており、昔懐かしい木造駅舎が今も残っています。

田川線では1974(昭和49)年12月まではSLが活躍していました。
田川方面への旅客列車を牽いて油須原駅を発車する9600形。背後の山の形は変わっていません。

SL末期の頃には田川地区の炭鉱はすでに閉山されており、石炭に変わってセメント原料となる石灰石輸送が行われていました。油須原駅から先は、下り坂。補助機関車を切り離し、汽笛も軽く発車して行きます。

タブレット閉そく機

タブレット閉そく機
タブレットとタブレットキャリア


単線区間では、正面衝突や追突を防ぐため、昔はタブレット閉そくが用いられていました。
タブレットは真鍮の円盤で、閉そく区間の両端の駅長の打ち合わせと共同作業によって、1対の閉そく機から1個だけが取り出すことができます。それを持った列車のみがその区間を運転することができる証、いわば通行手形といえるものです。
タブレットには丸、四角、三角、だ円の4種類があり、運転士は駅長からキャリアに収められたタブレットを受け取ると同時に、それがその区間に対する正しいものであるかを確認し、駅長はポイントと信号機を切り替え、時刻になると出発合図を出しました。一方、到着駅の駅長は、ホームで列車を出迎え、運転士からタブレットを受け取り、閉そく機に収納しました。昭和の時代、列車の運行にはとにかく人手がかかっていました。
合理化のため、1991(平成3)年に運転士が列車に搭載された装置で自ら閉そく機取り扱いをする「特殊自動閉そく式」に変更され、油須原駅は無人化されました。
その当時まで使われていたタブレット閉そく機を復元しています。実際に動かすことができるので、タブレット閉そくの仕組みが理解できます。

腕木式信号機


腕木式信号機は、腕木が水平の時は、停止信号を、斜めに下がったときは進行信号を表します。ホームに設置されたてこにワイヤーでつながっていて、てこを手前に引き倒すとガシャンと腕木が下がります。

停止信号
進行信号

懐かしい昭和の駅風景


反対側のホームに渡るための通路。こ線橋でも地下道でもなく、遮断機もついていませんが、列車が進来するときは駅長が見守っていました。
朝夕ラッシュ時の長い列車が停車するときは、階段に蓋をするとホームに早変わりしました。


貨物列車などが通過する列車は、ここまでの区間のタブレットを通過しながらホームの受け器に投げ込み、次の区間のタブレットを通過しながら、授け器から受け取ります。
下りホームには、受け器が復元されています。


駅の内外を分ける改札口。ホームに入るためには、きっぷが必要でした。
ローカル鉄道ではワンマン運転があたりまえになり、きっぷにハサミを入れてもらったり、下車駅で回収する駅員はいなくなりました。


昔、外灯といえ傘付きの裸電球でした。
駅舎の壁に設置された駅名標は今では珍しくなった電照式で、両隣の駅は当社になってから開業した駅ですが、旧国鉄様式のまま書き換えられています。


ホームに立つ旧国鉄様式の駅名標。木製で神社の鳥居を連想させるので、鳥居型駅名標と呼ばれました。
遠くへ旅に出ると、駅名の下に書かれた所在地名に、旅情を感じることができました。
現在の駅名標は多言語化や駅ナンバリング、路線ごとのラインカラー化がすすんでいます。

宅急便のなかった時代、小荷物を送るためには駅や郵便局まで持ち込むしかありませんでした。
事務室にある秤は、田川後藤寺駅で使われていたものです。小荷物は列車から列車へ積みかえを繰り返し運ばれていたので、到着までにたいへん時間がかかりました。

駅前の丸型の郵便ポストは今でも現役です。